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ときわんジャーナル

徳川幕府を支えた江戸の金座

20.03.16

お知らせ

1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年、全国規模の流通を目的とした金銀貨である慶長金銀を制定しました。その後、1603年には家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に徳川幕府を開きます。

慶長小判新新.jpg

当時、わが国で最大の金の産出量を誇っていた佐渡金山は、貨幣の原材料となる金を供給することを通して、幕府の通貨制度や財政を支えました。佐渡で産出された金は、厳重な警護のもと、毎年佐渡の小木港から対岸の出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)へと運ばれ、北国街道を経て中山道に入り、江戸まで運ばれていました。

北國街道.jpg

中山道から江戸の中心部に入る際には、筋違橋門(すじかいばしもん)を経由し江戸金座に運ばれていたと考えられます。なお、筋違橋は現在の万世橋と昌平橋の中間に位置し、神田川に架けられていた橋であり、現在は跡を残すばかりとなっています。

佐渡産出の金は江戸金座において金貨に鋳造されました。徳川幕府で最初に金貨鋳造の中心を担ったのは、豊臣秀吉の家臣として金貨鋳造を担っていた後藤庄三郎・光次であり、以後金貨は江戸時代を通して、後藤庄三郎家が長として統轄した金座で鋳造されることとなります。

1695年(元禄8年)には、慶長金が元禄金に改鋳されるに当たり本郷に鋳造所が設立され、江戸、京都、佐渡に分かれていた原判金の鋳造をはじめ、後藤家で実施されていた検定作業等も全て本郷に集約されることとなります。

そして1698年には、その本郷の鋳造所が廃止されるとともに、江戸本町1丁目(現在日本銀行本店が所在する日本橋本石町)の後藤家の屋敷内に鋳造所が開設され、この地は以後「江戸金座」と呼ばれるようになりました。

江戸金座.png

この時、京都、佐渡は、京都金座、佐渡金座となり、江戸金座の出張所として位置づけられることとなります。両金座が江戸の出張所として位置づけられることとなったのは、規模が江戸に比べて小さく、金貨の鋳造が継続的に行われなかったこと、幕府が金貨を改鋳する際に職人を江戸に集めて作業させたことに理由があるとされています。

なお、佐渡金山は1989年に資源枯渇のために操業を休止し、400年近くに及ぶ長い歴史に幕を閉じましたが、現在ではその殆どが国の重要文化財等に指定され、世界文化遺産候補として本登録に向けて準備が進められています。

佐渡金山.jpg

(参考文献)

「江戸時代の貨幣鋳造期間(金座、銀座、銭座)の組織と役割―金座を中心として」大貫摩里 日本銀行金融研究所/金融研究/1999.9

金を中心とする「佐渡鉱山の遺産群」新潟県佐渡市産業観光部資料

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